2016年2月17日水曜日

どうして私達はヨガの練習をし続けているのでしょうか。

私の周りには熱心にヨガの練習をしている方がとても多いです。
ヨガのクラスに毎週決まった曜日の決まった時間に参加するだけでもすごいのに、それを欠かさずに何年も続けている方がいらっしゃいます。

これは単純にヨガが好きということだけではできないことで、そのにさらに深くヨガの知識を知りたい、もっと深めたいという探究心がないとできないことだと思います。

では、どこからこの探究心が生まれるのでしょう。
以前からどうしてこんなに一生懸命にみんな練習するんだろうと思っていたのですが、インドに来てなんと、なぜかわかりました😃。
パタンジャリのヨガスートラの2章4節にその答えのヒントを見ました。


こちらがサンスクリット語の原文のアルファベット表記です。
(お忙しい方は読み飛ばして下さい)

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AVIDYA(無知) KSHETRAM(フィールド) UTTARESHAM(〜に続く) PRASUPTA(休眠の状態) TANU(芽が出ている) VICHCHHINNO(表れている) DARANAM(発展している)

人間の穏やかな生活を邪魔する無知を始めとする障害(エゴ、執着、憎悪、死への恐れ)は、段階を追って表面化していきます。

〈表面化の段階〉
PRASUPTAープラスプター休眠の状態で種の段階
TANUータヌー芽が出てきた段階
VICHCHHINNAーヴィッチンナー表面化して葉の段階
UDARANAMーウダーラナムーさらに発展して木になった段階

ヨガスートラ(2章4節)
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試しに生い茂った木と、何か自分の中のいらない感情を思い浮かべてみて下さい。
ここでは、葉っぱがたくさんの大木と怒りや苛立ちという感情を例に挙げてみます。

例えば、昼間会社で何かのストレスを受けたとします。一生懸命に周りのことを考えて仕事をしているのにうまくそれが受け入れてもらえなくって、そのストレスが苛立ちと怒りに変わったとします。

時間が経てば経つほどその怒りが大きくなっていきます。冷静に考えても間違ったことはしていないと思えます。
ふつふつとしたその苛立ちを抱えながらもその日の仕事を終え、そのまま帰宅することもできましたが、夜のヨガのクラスに間に合ったのでいつものヨガスタジオでリフレッシュすることにしました。

ヨガスタジオに行くと、顔見知りのいつものメンバーがいて、なんとなくみんなと話してそしてヨガのポーズで身体のストレッチをして、少しずつ気持ちが晴れてきました。

昼間は怒りと苛立ちがあったけれど、ヨガをしたり友人と会ったりして色々あるけれど今の自分の仕事や環境が好きだし周りの人を受け入れて明日からまた続けられるかなと思ったら、いつものポーズをとるハタヨガのクラスで上手に自分をコントロールできているということになります。
またヨガでなくても、友人と話すことやスポーツクラブに行くこと、またお料理や掃除といった行為でリフレッシュできるならそれはとても素晴らしいことです。

感情や状況をコントロールする術を自然と身につけているということになります。
毎週欠かさずにヨガの練習をされている方は自分のリセットの方法としてまた上手に生きていく方法として、ヨガがライフスタイルに組み込まれているのだと思います。

でももし、ヨガのポーズやもしくは呼吸法の練習を繰り返してみても何かが足りないという気持ちがどこかにあったら?
スポーツクラブにいって思いっきり汗を流して身体が活性化したのを感じているのに何かが足りないと感じたら?
大好きな友人と会っても別れた後にまた自分のネガティブな感情が蘇ってくるとしたら?

その時は、ポーズや運動といった行為で自分をコントロールする段階から、自分とは何かを自分の知性(BUDDHI、ブッディ)を使って学んでいく段階なのかもしてません。
ポーズをとるヨガをハタヨガと言いますがカルマヨガと言う言い方もできます。
そしてヨガスートラやバガヴァッドギーターなどの聖典を読みながら自分とは何か(セルフナレッジ)を学んでいくことをニャーニャヨガ(知識のヨガ)と言います。

ハタヨガもしくはカルマヨガからニャーニャ(知識)のヨガへ、より高度なヨガを学んでいく準備が整ったということなのかもしれません。



これは、私自身の経験ですが、ヨガのポーズを通して身体はもうすっかり健康で身体の掃除ばかりしているな、でもこれからどうすればいいんだろうと悩んだ時期がありました。

身体の掃除が出来てきたと思ったら、次は心の掃除をする段階に進む時なのだと思います。

単純なお話しですがこの知識のヨガ(ニャーニャヨガ)というものが少し分かりにくいです。
例えを挙げさせて下さい。

例えばコンピューターの知識を知りたかったとします。コンピューターについて詳しくなりたいと思って、コンピューターのことを思ってコンピューターの前で一生懸命に瞑想してもいつまで経ってもコンピューターの知識は身に付きません。
説明書を読んだり、誰かに習ってコンピューターの構造や機能や使い方を知る必要があります。
まずは基本となる知識を学ぶことが必要です。

私たち人間についても同じで、ヨガのポーズや何かの習い事やまた仕事などの日常生活を通して学ぶことは多いです。
上手に生きるためにポーズのヨガをしたり気晴らしをすることはとても大切ですが、それだけでは自分の中の問題が解決しない時は、その問題を焼き尽くすために自分とは何かという深い問題提起を自分自身にすることで、より自分をコントロールできるようになり、さらに穏やかな本当の幸せに行き着きます。


では最後に、先ほどのヨガスートラ2章4節と例えを照らし合わせてみます。
仕事中に何かのストレスを受けて怒りが生まれました。
その怒りは最初は種の状態(プラスプタ)であり、だんだん大きくなって芽の状態(タヌ)になります。芽の状態くらいだったら、周りの人には気付かれない程度の怒りです。でもその怒りがさらに大きくなると周りの人にも「あれ、なんかプリプリしているな?」と伝わっていきます。これが木でいうと葉の状態(ヴィッチンナ)です。そして怒りがさらに大きくなって人に当たったりものに当たったりしてしまうこともあります。木だと葉っぱが生い茂って幹もぐんぐんと伸びている状態(ウダーラナム)です。

ハタヨガや何かの行為を伴うリフレッシュは、大きな感情のコントロールに役立ちます。
怒りを家族にぶつけてしまったり、そのような表面化した感情はポーズのヨガやシャワーを浴びたりの行為で意外と落ち着いたりします。

でも、ネガティブな感情が小さな芽や地面に出ていない種の状態でずっと残っているとしたら、それはハタヨガやスポーツといった行為では解決できません。
熟考して熟考して、自分の中の知性を使って問題の種を焼き切るしかありません。
そしてその問題の種を焼き切ることでもっと穏やかな平和な状態を自分で獲得することになるのです。

パタンジャリは瞑想を熟考、熟慮と説明します。
瞑想というのは何か神秘的な神がかり的なもにではなくて熟考を積み重ねて自分とは何かをする果てしない旅なのです。



長い文章を読んで下さってありがとうございます。
1番言いたかったことは、ハタヨガのその先に進みたくなったら、今度は知識のヨガに進む時かもしれないですね!ということです。
身体と心と知性をコントロールすることは、人間として生まれてきた可能性を最大限に使うことだと思います。

多分、クラスでお会いしたらこの話をまたしゃべってしまうと思います。
その時はどうぞお付き合い下さい。
いつもありがとうございます。

哲学の授業風景。みんながよりかかって授業を聞けるように廊下で授業をしてくれました。
温度は30℃を超える日もありましたが風が気持ちよかったです。

ここに書いたことはこちらのスワミジから習ったことです。
お陰様で300時間のトレーニングが終わりました。

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